遊々記

pixivのキャプション代わりとか個人的なアレとか

武器と宝具・3

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取経一行の中で武器を持つのはいない。

強いて挙げれば、沙悟浄の月牙サン(金ヘンに産)が武器っぽいが

悟空のは物差しで、八戒のは馬鍬、悟浄はスコップという具合。

しかしこれら農具にはそれぞれ"銘"があり、この銘が、

農具に武器としてのアイデンティティを刻んでいる、とか思うワケだ。


武士に於いての武器…というか得物は、見栄そのもの。

得物に銘が入る事は非常に重要で、たとえば一騎打ちなんかでも、

 八戒「こいつは太上老君が打ち上げた、誉れ高い大馬鍬

    天蓬元帥に握られたりし至宝の得物、上宝遜金把は由緒正しい逸品よ〜」

とか何とか見得をきりつつ、名乗りと共に得物自慢を口上代わりに

バチバチ始めるのが習慣(?)でもあるほど、得物の銘というのは重要。

パロディ要素もままある西遊記、諸々お約束は守っとります。


そんな武士のステータスである銘だけども、

汎用武器を得物としている妖怪も出て来るワケですよ。

銘が無いなら、せめて自分とこだけでも命名したろうと

創作意欲にムチ打ちつつ、アレコレ考えて楽しんでいきたいトコですな〜と

武器の話は一旦おしまい。

武器と宝具・2

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何にしても名は体を表すものでして、

武器の形状も、銘に影響がでたりするもの。

どんな形で、どのように揮われ、どんな効果をもたらすのか

カタチそのものが脅威であればあるだけ

武器としての、密度はより濃いものになると思うワケですよ。


銘を冠ぜるまでもなく、西遊記に登場する武器はそれぞれ由緒あるもの

仮に好き勝手にモチーフを引っ張って来てキャラクタをつくれば、

得物にも縁を匂いわせてみたくなるのが親心。

サマになるかどうかを前提に、もにょもにょ描きだす。

基本的には、既存の武器を中国風に解釈して収めたいものの

キャラクターコンセプトに合わせて創作する場合もあり、

それはそれでまた楽しみ方のひとつかなと思うが

特定の「約束事」は守っておきたい。


お約束、悟空/如意棒、二朗神/二朗刀、牛魔王/混鉄棍…

などなど作中で「銘」があるっぽいモノ

これらはそのまま使いたく…というか、あんまり散らかしたくない

かと思えば、那咤は槍でなく槍っぽいモノに変えてみる

封神演義でもお馴染みの那咤三太子は、色んな武器を振り回す印象なので

ここは敢えて違うモノに〜

何と言うか、恐竜の皮膚の色を模索するように、

それは金属なのか、木なのか、石なのかはたまた未知の物質なのか、また、

五行配当はどうかなど可能な限り、発想の幅を広げたいもんです。


例によって、字体から間違った解釈をしたモノもあるワケですけども。

武器と宝具

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男子の冒険心を鷲掴みにする"武器と宝具"

有史以来のさまざまなファンタジー作品から、歴史上のアイテムや

創作物語などで、主人公が振るう得物には

必ずと言えるほど銘や2ツ名が冠ぜられている。

あらゆる物語の中で、数多の怪物や宿敵を撃退するアイテムには

不思議な魅力が凝縮され、今日でも

それら名だたる武器をモチーフとした作品が発表されて

新しい世代の子供たちに、多くのトキメキやキラメキを与えている事だろう。


武器。

もともと自然物であったものが、人の手に握られる事で

武器や道具へと解釈が変わった。

物理的に使う事で、それらは武器として派生し

感覚的に捉える事で、魔法や思想へと派生した…と思うんですよ。

西遊記に於いての武器と宝具、悟空はと言えば「緊箍」と「如意棒」など

固有武器や宝具は割と明確で、意匠としても問題なく機能し、また

ちょっとした約束事なんかもあるワケでして

いち描き手としては、デザインやアイデアをひとつに絞るのは

ちょいとアレなワケででで…

どうしようかと悩んでいると、目から鱗がおちた。


三国無双2!

強化ではなく新規獲得という形式で武器を保存、選択して使用できるとか

その手があったかというか、そんな単純な事で良かったのかと。

そんな事があってからは

いくつか作っておいた武器のデザインもそのまま活用、

イラストを描く時の気分で、持たせる武器も変えたって良いんだなとか

なんでそんな簡単な発想ができなかったのか。

それは固有名詞に因るものだと思うんですよ、

そのカタチから外れてはいけない、と、それ以上の思考ができなくなってしまう

それこそ単純に勿体無いじゃないですか。


武器も、酷使すれば刃こぼれしたり、壊れる事もあるし

そこに属性や約束事が関与すればカタチが変わる可能性もあるワケで

キャラクターよろしく、武器にも思想を持たせておきたい

「東海の大御柱、禹王の錘は一万三千五百斤が我を使えとこれにある

忉利三十三天もぶち抜く、如意金箍棒が俺の得物よ!」

とか見得を切らせたいとこです。


続く。

 

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妖怪に求める

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西遊記は擬人化の宝庫!

動物はもちろん、昆虫、植物、現象、意識や悪戯など

さまざまなモノが擬人化(具象化)されて悟空らの行く手に立ちはだかる

それらは十把一絡に妖怪と表現されるが

ある時、それは聞き手に伝えるための用語なのではと気がついた。

西遊記の登場キャラクタに、渾身のイメージを詰め込む

それが文章であれイラストであれ、現在の自分では

"妖怪"という用語の器に到底収めきれていない。

"いち妖怪"に収めるべく、また擬人化へのビジョンを求めたく

擬人化の話。


擬人化について「コスプレ論」が強い昨今

まずは人間(ヒトガタでなく)ありき、というのがセオリーらしく、

ケモノ、亜人、人外など住み分けされているそうな。

人を模したカタチである事を前提にするのが擬人化なら

獣よろしく、ここはひとつ裸での解釈を試みたい

人の裸で象る事ができる可能性の範囲に収まってこそ、

『擬人化』が成り立つのではあるまいかと。

とはいえ西遊記での擬人化、その主流は動物妖怪で、且つ

"本性"というカタチで別の表現方法を取る妖怪だっている。

そんなのが肉体を構成する以上、変化でもなく人間型を象るのは

なんとなく勿体無く思ってしまう。


こと骨格の美しさで言えば、トリのそれが一番だと思ってんですよ

また、ヒトの筋肉構成には甲殻や甲羅のような美しさを感じる

それらを踏まえて、心理的影響みたいなモノや構成美、

やっぱりこれは欲しい、その上で動物の強靭な脚部も欲しい

機能美を失った分、弱点をカバーする為に文明の利器をとるぞ!

鎧だって着られるし、重たそうな武器も振り回せて

画的に人間よりも動物よりもずっと力強くて本能的…というか

好きなように描いたらこうなったって話ですけどももも

また、その滑稽さにシャレでも利かせられたら尚良しかなと。


何にせよイメージに理屈なんかいらないんですが

一度くらいは、ちゃんと向き合って考えたいってワケですよ

しかし近年はいろんな擬人化モノが見られて楽しいです、ハイ。

A L I E N 4

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蟲の話があんまできてなくてアレだけどももも…西遊記に話を戻すと、

妖怪変化の特徴というか元ネタって何なのと。

それらは、動物の具象化だったり精霊や植物の具象化だったりと

目に見えるモノの、いわゆる擬人化。

九頭蟲や百眼魔君はじめ、蟲も擬人化に違いなかろうが

そもそもの蟲てのは何よ?って事を取りあげたかったみたいなんだ俺は!


前回までの宇宙的な話と、先の具象化の話をまとめると

妖怪変化とか擬人化云々の前に、

そもそもまず蟲てのは、精神的・意識的なモノの具象化で

それは妖怪でも変化でもなく、意識の集合体なんじゃなかろうかと。

故に、我々裸虫には蟲が、より本能的で、冷徹で機械的に見えてしまう

精神の動向や意識のゆらぎ、そういうものを怖れているのではあるまいか。

(ややこしくなりそうなので以下、蟲→昆虫で)


左右に開閉するアゴ、固形物を溶かして摂取するのも未来的で

内服薬なんかでも液体は最も吸収率が高い、

スズメバチなんかの昆虫団子は、割と錠剤に近いんじゃないかな

吸収効率と持続性のバランスが丁度良いとかそんな事を、昆虫は知っている。

また、合理性、生産性、機能性、強靭さなどなど…そういうモノに於いて

我ら五虫は、大きさ以外で敵わない。


何しろまずヤツらには年齢の概念がない、歳をとらない。

仮に、甲殻の劣化を加齢だと言えようか?

たとえ傷つけど、甲殻が薄くなるだろうか? その質に変化があるだろうか?

昆虫の体色は形状色で色素ではないので、数万年でも色あせず

状態さえよければ化石になっても発色し続けられる

メンテナンスの行き届いた年代モノの車やバイクが

いつまでも走り続けられるのと似る、

昆虫も、体液のオイル交換ができたら永久に動きつづけるんじゃなかろうか

…それを、はたして命と呼べるだろうか。


あと触覚てあるじゃないですか、感覚が具現化されたようなあの器官。

あれはいわゆる第六感のカタチなんじゃないかと思うんですよ

我々が触ったり舐めたり、見たり聞いたりとまぁいろいろやって得られる情報量と

アレでチロチロやって得られる情報量ってのは、

もしかして凄く差があるんじゃないかと。

でも触覚が無い昆虫もいるんだよね、クモとかサソリとか

触覚はないけど、第六感はあるのかも知れないぞ!と思ってみたり

昆虫からすら逸脱した昆虫ってワケですな、ホントなんだよアイツら。


それから美麗さと醜悪さ。

蝶のように、童謡にさえ取りあげられる可愛らしさをアピールする昆虫と反対に

猛々しく隆起した甲殻を持ち、「兜」なんて呼ばれる昆虫もいるワケで

これほど極端な印象を備えた生物てのは他に無い。

鳥なんかにも似た印象があるものの、昆虫ほど極端ではなかろう。

優雅にヒラヒラと飛ぶものもあれば、その羽音を本能的に危険だと思わせるものもいる

もはやDNAに刻まれているとしか思えない、我々にとって昆虫は、

捕食者なんだなと。


今日、さまざまな昆虫の新種が年間2000種から発見されているそうな。

陸海空あらゆるジャンルで地上に適応しようとするその侵略性に

恐怖の具象化とその可能性を想う。

それはイラストの世界にも通じる気がするんですよ、

昆虫モチーフの合成クリーチャーってのは凄く多彩で

動物クリーチャーと比べても、その多さは比ではなく

そういう意味でも、我ら裸虫にとっては恐怖イメージが強いように思う

どこまでも意識に喰いついてくるとか、さすがは

宇宙、意識の世界の住人だなぁと。


…とか色々考えてるうちに、なんとなく漠然と

混世魔王も蟲なんじゃないかと思えてくるんですよ。

まとまってないけど終わり。

A L I E N 3

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話が大気圏外まで脱線してしまったので、ちょっと方向を替えようかと

シンクロニシティぽい話を。


シンクロニシティとは何かを詳しくは知らないものの、

偶然の一致みたいなのは何度か体験してるんですよ

それが日常的な出来事だったり、創作活動上であったり思考であったりと

ことイラストなんかだと割と出くわすもので、

その時の感情はといえば何というか「それ俺が考えてたのに!!」と。


何でか解らない、理解すべくもない出来事とか

そういう種類の不気味さとか恐怖とかあるじゃないですか

西遊記にもニセ悟空として六耳ビコウが登場、でもそこには法則がある

「法則がある」、それだけで何となく安心できて心強い

でも九頭蟲はもっと不気味で不安でおぞましいモノ、

教えて説くにも蟲の耳には届かない、それとは意思の疎通すらできなくて

敵意と恐怖と命がむき出しで敵前に放り出されるとか

そんなのと対峙する事自体が無意味で、何かしらの心の具象化として扱いたく

アートマやら宇宙やらと混ぜた。


全く繋がりが無くて極端に違う人生にある2人が、

ある日偶然その場に居合わせると、見分けが付かないほど似てるとか

すごく不安で不思議で、心がゆらぐ。

腑に落ちない、まっさらに出来ない、心に張り付いた手油のような

ふとして鼓動がだんだん早くなるような恐怖感

そういう「法則の外の存在」として、九頭附馬と悟浄を似せた。

…得物が同じって事と、九頭(悟浄の髑髏ネックレス)だからってのが

イデアの出所なんですけどね。


蟲のお話は次回でおしまい。

A L I E N 2

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超果てしない宇宙、そこは人の理解を遥かに超えた

空間、存在、世界と形容数多だが、ここでは「宇宙(ウツ)」と表現したい

なんせ鬱てのはアレですよ、宇宙そのものなんじゃなかろうか

あんなもの手に負えないし戦っちゃダメですわ、

こりゃ理解できないモノだと受け入れるべき意識だと思うワケですよ

そんな宇宙に魅入られた人々が、何かに救いを求めるのはごく自然な事で

神や救世主が生まれるのもままある事なんだと。


そんな宇宙を彷彿させるワードのひとつに

「魂」だとか「アートマ」というものがある

前者は、心や意識といった日本ではごく日常的な解釈のワードで

後者はあまり耳にしないが、前者と近いニュアンスを汲めて、また

このアートマの面白いところは、個にとっての性質や位置づけが定かでないが

命にとっては共通のモノという概念、

「命はアートマより生まれ、アートマへと向かい、アートマと融合する」

命は、肉体と精神とアートマに依って維持されており

それらの調和性で神か人か動物かと区別される

人は、それらのバランスをとろうとしている存在なんだとか。


"得体の知れなさ"の本質が心のカタチに由るところとすれば

さらに、宇宙が心を象るのだとしたら、それはあらゆる蟲のように

やたら規則的で無機的で冷徹な印象になるのではなかろうか

そしてそれを誰かが「救世主」や「侵略者」と表現するんだな。

A L I E N

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昆虫(蟲)。

本来、蟲は羽虫に属するものだとされるが、ここはひとつ解釈を変えたい。

それは翅を、体毛を、鱗を、甲殻を持ち、万物に共通する裸をも経験している。

すべてに属しながらその全部を否定するシンメトリーを太古より保つ姿は

神秘を通り越した"得体の知れなさ"でその印象を、塗りたくる。


人はモノの規模を理解すべく「大きさ」という概念を作ったが、

今日に至って、目に見えないモノに対しての「大きさ」までは…どうなんでしょ

そういった目に見えないモノのニュアンスが、ひとつの個に凝縮されたのが

「蟲」なのでは…というかそういう事にしちゃった。


理解の限度を超える存在といえば「宇宙」!

果たしてそれは、はかれるモノなのか、存在すると表現すべきなのか〜と

これほど疑問で終わるのが相応しいモノもないだろうと感じる。

疑問や問いで終える事ができて、またそうすべきアレな事もままあるもんででで

そんなロジックの多くは、"心"や”意識”に由来するものだと。

蟲が持つ"得体の知れなさ"が、解釈というものを破棄するほど柔軟で

それを"意識のカタチ"であると表現すれば、ロジックはすんなり埋まった。


続く。

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敵対者のススメ・後編

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いくつものお話が組み立てられて、ひとつの物語ができあがる

西遊記もきっとそんなオムニバスだった時があったんじゃなかろうか

それでも、せっかく組み立てられたものを分析してみようってのは

それこそ野暮な話ってもんです

しかし好きだからこその野暮ってのも、ままある事かなぁと。


正体不明の何か。

それは自分自身に対するアンチテーゼ、「どうにかしなくては!」と思わせる

不安のカタチそのものではなかろうか

またその手の何かってのは存在そのものが、あらゆるモノに対しての

敵対者になりうると、そう思ってんですよ。


…あれ、結局これ言いたかっただけっぽい

前回、前々回の記事がアレすぎて恥ずかしいので

ここいらでハラソーギャーテーボジソワカっと!

敵対者のススメ・中編

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キリスト教に於いて他宗教は邪教であり、それは常に侵略の対象

多くの敵対者を造り出し、自分たちの信仰をより崇高にしていった

北欧神話もそのターゲットに選ばれた。

主神オーディンは、知識の為に片目を捧げたり自らを木に吊るしたりと

「儀式的な死」を受け入れるなど、強烈なシャーマニズムを持っており、また

彼の娘たちとされるワルキューレは魔女そのものである。

そんな北欧神話へのキリスト教の姿勢と、西遊記に於ける万聖一族の在り方とは…と

また妄想が炸裂!


西遊記には「改宗」というテーマがある。

万聖一族は、皆殺しにされたあげく生き残った竜婆は

人柱にまでされてしまう、ひとえに改宗とは言いきれないのではあるまいか。

ここに北欧神話を引き出した時、いくつかのキーワードがあがる

それは「ヤギ」「魔女」「贖罪」「悪魔」であると仮定、

ヤギはヨーロッパの神話に登場する事が多く、反逆者の獣であり

カラスで表現される事もあるワルキューレは魔女そのもの、

悪魔とはワルキューレを娘とするオーディンでは〜とこじつけ。


万聖竜王には、牛魔王と親交があった。

花果山義兄弟に於いて、上位三兄は「魔」と示されており

これはそれぞれが「蛇」と関係している事を示している

こと牛魔王はその関係性が根深く、そのルーツを

牛魔王=シヴァ神=自在天=天魔=摩羅

とすると、牛魔王の蛇属性というのは如実なものであると。

作中での牛魔王は、牛として描かれている為

蛇の属性を他所に逃がす必要がある、そこで万聖竜王ですよ〜と

長くなったので次回で完結。