四不象・2
個人にとってもっとも身近なニセモノ、それは自分自身だと思うんですよ
場をしのぐ為にニセモノの自分を演じたり、個性を押し殺したりしてしまう…
ニセモノは、自分のすぐ側にいるワケだ。
宇宙原理たる如来によって見破られ、霊獣・諦聴に見定められた六耳ミコウ。
真贋の見極めではなく、"存在"を認めるかどうかに因るもので、
それは個に対する、個々の意識や見解の違いに由来するもの。
悟空が知る自分自身と、他の誰かが知る悟空とが
はたしてどれほど同じものかと。
"類似"に留まるであろう意識のゆらぎや無意識が、
似ても似つかない六耳を、悟空として見せているとしたら恐いなぁと。
「孫悟空はオレだ、なぜわからないんだ」
悟空の主張は通らない。悟空と六耳がいるという"事実"を、誰も認めてくれない、
その無力感や孤独感は、プライドなど簡単に崩してしまう事だろう。
"自分"と認めたくない"自分"、これは鬱のようなものだ、
戦って勝てる手合いではなく、受け入れたくもない…
悟空は、これに魅入られてしまった。
もし自分の性質を眼前で赤裸々に見せつけられたなら、
苦痛や苦悩が混じり合った嫌悪感に囚われるだろう。
自らが存在の証明でありながらも、それを否定したい気持ちや
主張が認めてもらえない苦しみってのは、すごく辛くて寂しいもんです。
続く。