遊々記

pixivのキャプション代わりとか個人的なアレとか

そのpixivに投稿できなくなってしまった

seioubo

古くは山海経以前より言い伝えがあるとかないとかで

とにかく古い神である事に違いないが、

宗教が関わらずに性質もカタチもまるで変わる神さまってのは

珍しい部類なんじゃないかなと。

西王母はそんな部類に属する古神であるらしい。

ドキュメンタリー好きな中国で、神の姿カタチの変化は極めて稀で

仮に"流行"をひとつの"信仰"とした場合に

このような事が起こるのではなかろうか。

悟空、悟浄、八戒と西王母との縁は深い。

悟空は幡桃を食い荒らし、悟浄は幡桃勝会で玻璃の器を割り、

八戒はその会場で西王母の部下である七衣仙女にちょっかいを出し

それぞれ下界に落とされて、これはちょっとした因縁なんだろう。


描くうちにどこかアルテミスっぽいなーと

エフェソスのアルテミスに似たり似なかったり…

西王母には長年悩まされたが、とりあえずでも落ち着きを持てて良しとできそうだ。

しかしpixiv対策どうしよ

そんなぽんぽんパソコンなんて用意できないってw

倒産は痛かったなぁ…嘆いても仕方ないけど。

王母

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情報は資料である事に違いなかろうが、時に邪魔になってしまう事もしばしば。

聞き伝で描かれた姿はナンセンスで、それが真剣に描いたものであればあるほど

惹き付けられるものがある。

資料はあくまで資料であって、資源ではないんじゃないかと。

そんなふうに思いつつ、何度も何度も同じものを描き続けて

違うものにしていくのは楽しい。

思春期の恋人同士が毎日する電話のように、少しずつ変化しているはず。

 

www.pixiv.net

金母

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初期のデザインでウェディングドレスを着てるのがあったので採用

玉勝はかならずつけとかねばならない、これは西王母の決まり事だ

かなり妥協して人寄りの面持ちにしてみるが、これは気に入らないなぁ…

解釈のひとつとしてならまぁ…うn

これは表情のカタチなんだろう、玉帝とおしゃべりする時は

きっとこんな感じなんじゃないかなと。


しかし鬣のうっとうしさったらありゃしない、ライオンのイメージちょう邪魔!

雑記

日本には、古くからさまざまな妖怪が存在した。

妖怪の正体を知り、理解することがそれらとの共存につながると考え、

独自にアレコレ調べたり思案して長い。

自ら妖怪博士であると自負し、そのように振る舞ってきたが

今日を以て、ひと区切りにしようじゃないか。


探究し、理解してゆくことで妖怪がひとつ消える

そう、気がついた。

謎をあきらめてはいけないが、妖怪にそれはダメだ。

正体を暴く事は快感で、対処を知れば肚もすわるが

妖怪と共存はできなくなってしまう

それではどうも淋しい、それはもう妖怪博士ではない。

また、現代でも妖怪がいる事に気がついた

これが非常に不可解でナンセンスで、妖怪然と感じられて

何と言うか嬉しい。

妖怪博士であるよりも、妖怪を感じられるヒトで居続けたい。


そんなワケで妖怪博士は今日限りで辞めだ。

”知らない事”が妖怪に居場所を与えると、ようやく気づいた

解らない事があって良い、ロジックが埋まらなくて良い

その1ピースにはカタチがあるとは限らず

カタチを求めるべきものでは無いのだと。

そうすると妖怪の住処てのは、ヒトの心に似ているもんだなぁ。

釈迦牟尼尊者

syakamuni

キャパシティを超えるスケールに恐怖や畏れを抱くのは

ごく当たり前のことなのかなと、なんとなく思えて

それが巨大な何かに対してのものではなく、

自分が小さくなるような心細さからジワジワ溢れて来る

救いを求める感じなのだと。

それは単純な巨躯、群れ、建造物や自然現象など

そのスケールは映像だけでなく音であったり温度であったりと

さまざまな方向から自身に迫りくる…

そういうものを、何かのカタチにするには役者がいるワケで

釈迦如来を大きく見せるなら星が丁度よさげ。


もうどうしようもなく巨大で、”世界”とか”摂理”とかそういうものを

遥か超越しそうなスケールっぽさをカタチに求めた時、

結局、超新星やその逆みたいなところに落ち着く。

それがどうも気に入らないやら踏ん切りつかぬやらで、

偶発的なものを探って10年経ってた。

それが最近、なんとなくカタチになりそうだったので

そっと、すきま風に浮きあがった綿ぼこりをつまむように

ちょっとずつ描いていく。

ハライタ

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マンガもアニメも特撮も見ないぜ!

と、やせ我慢をストイックと勘違いして一切の情報を除外し

神社や博物館、動物園を廻って気づいた事…

こりゃやせ我慢してる場合じゃないぞ!!

特撮仲間に連絡を取りVHSを鑑賞、イメージに足りないものと描き起こしたいものを

何となく探ってみる。

しかし一朝一夕でそれを見いだせる訳もなく、平成仮面ライダーの知識だけが頭に入った。

…どうしても怪人に目が行ってしまう。


西王母のシルエットはずっと半獣半人、美貌か獣か。

どうも美しさばかりを求めると、それを崩したくもなるものでして

かといって獣が美しさを崩したものかといえばそうではない…

うーむ、どっちも欲しいのだから悩ましい。


生活

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四不象の解釈に風呂敷をひろげすぎて、未だそれを得られない事態!

ここらで一端寝かせとこうと。

停滞した物事を動かすには、すごく大きいエネルギーが必要らしく

自分こそ挫折し立ち上がり慣れしていると思っていたものの

今度ばかりはもっと力強くあらねば!


思い描く事の可視化が、自らを奮起するものと念じながらの毎日です。

やれ、私こそ四不象に囚われているのかも〜と

何だって西遊記に向けてやるぞ。

四不象・3

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偽者との戦いは、個人戦ではない。

対峙した偽者の存在を認めるのが、個人ではなく第三者であるからで

他者の意識によって本物と偽者とは二分されてしまうワケだ。


個と、全体の戦いであるともとれようこの様子は

他者が個にパーソナリティを求める、という図式の体現ではあるまいか。

他所からかき集めた何かを思考し、取捨選択する事で個を形成しながら我々は成長するもの

場面によっては、マンネリズムにとらわれる事態にも出くわすもの。

しかし多くのマンネリズムは、そんな個を飲み込んでしまう怪物にもなりかねず、

個が、自我やパーソナリティを求める時、過去の自分は

"偽者"として目の前に立ちはだかる事があるかもしれない。


悟空が囚われた孤独感…

言葉は偽者たる自分に否定され、行動は偽者たる自身に制される。

制する事ができない思惑へのいらだちは

意思や意識の、移り変わりを表現した偶発的な感情なのかもしれないが、

明確な答えを見出せない事が、より孤独の深淵へと引きずり込んだのではあるまいか。


…単純に『偽者だとォ?! 野郎、鉄棒を喰らえ!引き回して面の皮をはいでやる!』

とかそんなノリで済ませてやるわ〜て気分なのかももも。

つづく。

四不象・2

blog33w

個人にとってもっとも身近なニセモノ、それは自分自身だと思うんですよ

場をしのぐ為にニセモノの自分を演じたり、個性を押し殺したりしてしまう…

ニセモノは、自分のすぐ側にいるワケだ。


宇宙原理たる如来によって見破られ、霊獣・諦聴に見定められた六耳ミコウ。

真贋の見極めではなく、"存在"を認めるかどうかに因るもので、

それは個に対する、個々の意識や見解の違いに由来するもの。

悟空が知る自分自身と、他の誰かが知る悟空とが

はたしてどれほど同じものかと。

"類似"に留まるであろう意識のゆらぎや無意識が、

似ても似つかない六耳を、悟空として見せているとしたら恐いなぁと。



孫悟空はオレだ、なぜわからないんだ」

悟空の主張は通らない。悟空と六耳がいるという"事実"を、誰も認めてくれない、

その無力感や孤独感は、プライドなど簡単に崩してしまう事だろう。

"自分"と認めたくない"自分"、これは鬱のようなものだ、

戦って勝てる手合いではなく、受け入れたくもない…

悟空は、これに魅入られてしまった。


もし自分の性質を眼前で赤裸々に見せつけられたなら、

苦痛や苦悩が混じり合った嫌悪感に囚われるだろう。

自らが存在の証明でありながらも、それを否定したい気持ちや

主張が認めてもらえない苦しみってのは、すごく辛くて寂しいもんです。


続く。