遊々記

pixivのキャプション代わりとか個人的なアレとか

生活

f:id:xiyouji674:20180113182035j:plain



四不象の解釈に風呂敷をひろげすぎて、未だそれを得られない事態!

ここらで一端寝かせとこうと。

停滞した物事を動かすには、すごく大きいエネルギーが必要らしく

自分こそ挫折し立ち上がり慣れしていると思っていたものの

今度ばかりはもっと力強くあらねば!


思い描く事の可視化が、自らを奮起するものと念じながらの毎日です。

やれ、私こそ四不象に囚われているのかも〜と

何だって西遊記に向けてやるぞ。

四不象・3

f:id:xiyouji674:20180113182225j:plain



偽者との戦いは、個人戦ではない。

対峙した偽者の存在を認めるのが、個人ではなく第三者であるからで

他者の意識によって本物と偽者とは二分されてしまうワケだ。


個と、全体の戦いであるともとれようこの様子は

他者が個にパーソナリティを求める、という図式の体現ではあるまいか。

他所からかき集めた何かを思考し、取捨選択する事で個を形成しながら我々は成長するもの

場面によっては、マンネリズムにとらわれる事態にも出くわすもの。

しかし多くのマンネリズムは、そんな個を飲み込んでしまう怪物にもなりかねず、

個が、自我やパーソナリティを求める時、過去の自分は

"偽者"として目の前に立ちはだかる事があるかもしれない。


悟空が囚われた孤独感…

言葉は偽者たる自分に否定され、行動は偽者たる自身に制される。

制する事ができない思惑へのいらだちは

意思や意識の、移り変わりを表現した偶発的な感情なのかもしれないが、

明確な答えを見出せない事が、より孤独の深淵へと引きずり込んだのではあるまいか。


…単純に『偽者だとォ?! 野郎、鉄棒を喰らえ!引き回して面の皮をはいでやる!』

とかそんなノリで済ませてやるわ〜て気分なのかももも。

つづく。

四不象・2

blog33w

個人にとってもっとも身近なニセモノ、それは自分自身だと思うんですよ

場をしのぐ為にニセモノの自分を演じたり、個性を押し殺したりしてしまう…

ニセモノは、自分のすぐ側にいるワケだ。


宇宙原理たる如来によって見破られ、霊獣・諦聴に見定められた六耳ミコウ。

真贋の見極めではなく、"存在"を認めるかどうかに因るもので、

それは個に対する、個々の意識や見解の違いに由来するもの。

悟空が知る自分自身と、他の誰かが知る悟空とが

はたしてどれほど同じものかと。

"類似"に留まるであろう意識のゆらぎや無意識が、

似ても似つかない六耳を、悟空として見せているとしたら恐いなぁと。



孫悟空はオレだ、なぜわからないんだ」

悟空の主張は通らない。悟空と六耳がいるという"事実"を、誰も認めてくれない、

その無力感や孤独感は、プライドなど簡単に崩してしまう事だろう。

"自分"と認めたくない"自分"、これは鬱のようなものだ、

戦って勝てる手合いではなく、受け入れたくもない…

悟空は、これに魅入られてしまった。


もし自分の性質を眼前で赤裸々に見せつけられたなら、

苦痛や苦悩が混じり合った嫌悪感に囚われるだろう。

自らが存在の証明でありながらも、それを否定したい気持ちや

主張が認めてもらえない苦しみってのは、すごく辛くて寂しいもんです。


続く。

四不象・1

f:id:xiyouji674:20180113182347j:plain

怪物と戦う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
君が長らく深淵を覗くならば、深淵もまた等しく君をみているのだ。(ニーチェ)

偽者に定義は無い。見せかけの姿を定義とするならば、

それは自身にも還ってきかねないのだから…とか詩的な事をうそぶきつつ、

六耳ミコウの話。


どんな作品でも、ニセモノの登場には胸躍るもので

例えば主人公のニセモノ、ボスのニセモノ、かつての仲間のニセモノ

はたまた、同一人物が別人を演じるニセモノなんてのもあるもので、

ニセモノの活躍(?)は多岐にわたり、また、

その中身も、噛ませキャラクタから強烈なキャラクタ、第三因子まで

なかなか達者なポジションじゃないかと。


ここからは創作的な話になるけども、

六耳ミコウは四猴混世、五仙五類に属さない存在で、

それらのどこにも属さず、どれもを持つ蟲の話とは

ちょいと異なるんじゃないかな〜とか思うんですよ。

六耳ミコウは、精神的な定義のある存在で、蟲はそういうモノが無い。

"やり場の無い感情の行き場"のような、

妖怪変化や異形、蟲とも全く異質なモノであると。

そこで四不象の登場ってワケだ。


続く。

狂信者へ。

7月25日は孫悟空の誕生日とされている日なんだと、いつか目にしたものの

なかなかどうして身近に思えなくて虚しい…というか

悟空が仏の身になった事で、自分の思い描く誕生日像から遠のいた〜とか

なんとなくな区切りができたからなのかもしれない。

祝う気持ちから祈る気持ちへの変化みたいなモノかなーとも。


自称狂信者は、得てして信仰を蔑ろにするもので

自分による自分の為の信仰に、熱心なんですよ。

しかしその自分による自分の為の信仰は、

耳に聞いた"孫悟空"という人物を、とても表現しきれてなくて

実にムズムズするぅ〜とか何とか想う7月25日でした。


   *   *   *


表現が楽しい。

イラストだって、思い通りに描ければさぞ楽しかろうが

そう思い通りにはいかないワケでして

あれこれ表現方法を変えてみて気づいたのは、

自分が表現して伝えたいのは、"雰囲気"なんじゃないかと。

存在だとか在り方だとか堅苦しい事でなく。

さりとて具体的なイラストにするのが楽しいので、怠けてついそうしてしまう

あいや命短し勉めよオヤジだ!

異形・参

f:id:xiyouji674:20180113182909j:plain

二朗神を長兄とする梅山六兄弟(七兄弟)は皆、異形の姿。

狩猟、農業、学業、治水、土建、畜産などの集合体で

それぞれ異形ではあるが、人や生活に密接した存在だと感じる。

また、異形は「避邪」として備えられる事で

さまざまな災厄を跳ね返す強力な、お守りになった。


日本でも避邪像としてなじみ深い「鍾馗さま」も、二朗神の配下

夢の中で鬼退治なんて超カッコイイとかはおいといて、

二朗神と鍾馗、こと鍾馗は皇帝に縁のある人物

皇帝公認のMr.避邪ともいえる鍾馗の存在は、二朗神の人ならざる異形性を

調和というか柔らかくしている…とか思うワケですよ。


しかし、避邪としての鍾馗が門番とはこれいかに。

それは二朗神の異形と、人間世界の境界線そのもので

かつ、結界という意味は薄くて、むしろ橋渡し的なポジションなのかなと

そんな鍾馗も、死の側面のある存在なワケででで

二朗神は人と異形の境界線、死の国ではなく、異世界や異次元に

そのアイデンティティをおいているのでは〜と、異形+避邪をコンセプトに

そのうち梅山六兄弟も描いてみたいなぁ。

異形・弐

f:id:xiyouji674:20180113183007j:plain

哮天犬も二朗の一部、悟空もこの哮天犬に圧されて御用となった

哮天犬だけでなく、描写として鷹も連れてるとか読んだか聞いたかしたが

これらは主人と従者の関係ではなく、もともとひとつの存在を分割してできたのでは〜

とかとか薮睨み。

犬(狼族)と鷹(鷲)は、王者の意匠でありながら不吉の象徴としてのニッチでもあろう、

また、二朗神の治水の神としての側面が、何やら仄暗い一面を想起させる。


三ツ目は霊力の象徴、そして特定の理由への特色でもある、

しかし半神半人という彼の出生が、それら特徴を担うにしても

あまりに強烈すぎやしませんかなと。

世界中にある半神半人の英雄には、必ず異形の側面があるもので

二朗神もその中国代表みたいなポジションなんだろう、

なるほどそういう意味での異形ては、世界共通なワケだ。


人外との意思の疎通は、人ならざる業

そこでは意識と意識が混ざり合い、それはカタチを選ばないもの

えーとつまり、ごく個人的な事なんじゃないかなと。

そこに神だの異形だのが関わるとすれば、死や意識のような

目に見えない出来事のようなアレかなと!

二朗神自体が、死に直結するとは思わないが

犬のような動物と、鷹のような動物てのは、なんとなく死を想起させる、

エジプトのアヌビスとか北欧のフレスベルグとか?

英雄の異形が世界共通ならば、犬も鷹もそれらの属性を持っているのではあるまいか。


次回でおしまい。

異形

f:id:xiyouji674:20180113183224j:plain



あまりにも脅威すぎて、恐怖から逃れるために祀る

どこの国に於いも、避邪に似た概念は古くからあるそうな

こと、中国ではもっぱらポジティブなイメージが強い「避邪」

かつてその凄まじい武威で人々を苦しめ、また新兵器や兵法などの

開発者でもあった悪神、蚩尤。

黄帝によって滅ぼされても尚、その恐るべき姿は軍旗へ掲げられ、

もの言わぬ兵器としてすら成り立ったとか。

すごく平たく言えば、隈取りや入れ墨なんかも避邪の一種かもしれない。


二朗神。

さまざまな美辞麗句で語られる涼やかな好青年

…に似つかわしくない、三ツ目の異形に長柄刀、はては猛犬までも侍らせて

聞くと見るでは大違い!

好青年のイメージをはるかに凌駕したその、異様。

また、封神計画での活躍と悟空との対峙で、彼の印象はなんか凄い事に

そう、なんか凄い事のように思ってしまうが、

特別な存在である事は確か、伯父の事はおいといても。


取経一行も玄奘にとって避邪であり、

観音曰く「悪に立ち向かうには、別の悪が必要よ♪」みたいな側面もあるが

困難を引き寄せる立場の玄奘に、避邪の意識はないワケで…

話を戻すと、先の昆虫の話で九頭蟲にトドメさした哮天犬、

これは二朗神のキャパシティーだと考える

縁ある得物で、突けど叩けどなかなか敵わなかった九頭蟲が

生体エネルギーのひと噛みでブツリ!

哮天犬を仙術的なアレと捉えず、あくまで二朗神の一面であると。


…続く。

武器と宝具・3

f:id:xiyouji674:20180113183352j:plain


取経一行の中で武器を持つのはいない。

強いて挙げれば、沙悟浄の月牙サン(金ヘンに産)が武器っぽいが

悟空のは物差しで、八戒のは馬鍬、悟浄はスコップという具合。

しかしこれら農具にはそれぞれ"銘"があり、この銘が、

農具に武器としてのアイデンティティを刻んでいる、とか思うワケだ。


武士に於いての武器…というか得物は、見栄そのもの。

得物に銘が入る事は非常に重要で、たとえば一騎打ちなんかでも、

 八戒「こいつは太上老君が打ち上げた、誉れ高い大馬鍬

    天蓬元帥に握られたりし至宝の得物、上宝遜金把は由緒正しい逸品よ〜」

とか何とか見得をきりつつ、名乗りと共に得物自慢を口上代わりに

バチバチ始めるのが習慣(?)でもあるほど、得物の銘というのは重要。

パロディ要素もままある西遊記、諸々お約束は守っとります。


そんな武士のステータスである銘だけども、

汎用武器を得物としている妖怪も出て来るワケですよ。

銘が無いなら、せめて自分とこだけでも命名したろうと

創作意欲にムチ打ちつつ、アレコレ考えて楽しんでいきたいトコですな〜と

武器の話は一旦おしまい。

武器と宝具・2

f:id:xiyouji674:20180113183451j:plain


何にしても名は体を表すものでして、

武器の形状も、銘に影響がでたりするもの。

どんな形で、どのように揮われ、どんな効果をもたらすのか

カタチそのものが脅威であればあるだけ

武器としての、密度はより濃いものになると思うワケですよ。


銘を冠ぜるまでもなく、西遊記に登場する武器はそれぞれ由緒あるもの

仮に好き勝手にモチーフを引っ張って来てキャラクタをつくれば、

得物にも縁を匂いわせてみたくなるのが親心。

サマになるかどうかを前提に、もにょもにょ描きだす。

基本的には、既存の武器を中国風に解釈して収めたいものの

キャラクターコンセプトに合わせて創作する場合もあり、

それはそれでまた楽しみ方のひとつかなと思うが

特定の「約束事」は守っておきたい。


お約束、悟空/如意棒、二朗神/二朗刀、牛魔王/混鉄棍…

などなど作中で「銘」があるっぽいモノ

これらはそのまま使いたく…というか、あんまり散らかしたくない

かと思えば、那咤は槍でなく槍っぽいモノに変えてみる

封神演義でもお馴染みの那咤三太子は、色んな武器を振り回す印象なので

ここは敢えて違うモノに〜

何と言うか、恐竜の皮膚の色を模索するように、

それは金属なのか、木なのか、石なのかはたまた未知の物質なのか、また、

五行配当はどうかなど可能な限り、発想の幅を広げたいもんです。


例によって、字体から間違った解釈をしたモノもあるワケですけども。